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My Kyoto Fumiko Mabe

早春の旅
Feb.10~Feb.12, '19

   清滝川は京都では珍しい古生層線上を流れているので谷が深く
Feb.10天龍寺、野宮神社、落柿舎、北野天満宮、金閣鹿苑寺、龍安寺 Feb.11大心院、仁和寺、神護寺 Feb.12清水寺産寧坂(三年坂)、二寧坂(二年坂高台寺 、八坂神社
2/10 (日) 天龍寺、野宮神社、落柿舎、北野天満宮、金閣鹿苑寺、龍安寺
                               宿泊:  妙心寺 大心院泊 京都右京
          
天龍寺 (世界遺産1994年)  足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石を開山として、康4(1345年)創建。天皇が祖父亀山天皇と過ごしたゆかりがあってこの地に7年を要して建立。1386年)には、足利義満によって五山の第一位に置かれた。 臨済宗天龍寺派大本山 釈迦如来を本尊とする。山号:霊亀山(れいぎざん)。足利尊氏は後醍醐天皇を吉野に追い詰め、南朝を滅ぼした張本人ですが, 後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石を開山として尊氏は将軍であるのにみずから鞄の袖に土石を包んで働き亡き天皇に誠意を尽くしたという。康永4(1345年)創建。その財源は中国に天龍寺船(貿易船)を就航させての交易によって賄った。
     
康永2年(南朝の興国4年/1343年)には七堂伽藍がほぼ整備された。 その後1380年の間に四度火災によって焼するが、その度に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が再建している。 いままでに八回も焼けたという。
   
庫裏(くり)
    8:30 
諸堂拝観の入口となっており、大方丈、書院、多宝殿を拝観できる。 明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。
     

             
玄関に入った正面大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。
  

           

         

   

   

 
大方丈から見る

池泉回遊式庭園の曹源池(そうげんち)夢窓疎石の作庭
      
世界遺産である曹源池庭園は優美な王朝の大和絵風の伝統文化と宋元画風の禅文化とが巧みに融け合って独特の美しさを完成している。  龍門の滝や三尊石がある。   奥の建物は書院  

左手にみえるのが嵐山、正面には亀山が、右手に愛宕山と小倉山。鯉は霊魚で池中千年経て天へのぼり竜になる。その上り口を登竜門という。今もある。
     
曹源池中央正面に2枚の巨岩を立てた龍門の滝があり、通常は滝の下に置かれる鯉魚石が滝の流れの横に置かれ、龍に変化する途中の姿を現していると言われています。
曹源池の名前は池の中から「曹源一滴」と書かれた石碑が現れたことが由来となっています。
         
自然石の橋、三尊形式の岩島、浮嶋のような岩のたたずまいなど、嵐山の遠景を借景に方丈からの鑑賞を意識して作庭され、四季を通じて絶賛されるところである
    
          
   
     
多宝殿
   

   
                                         
多宝殿     昭和9年(1934年)に再建された多宝殿。後醍醐天皇像が安置されている
   
 
  
                                                   呉服枝垂梅(くれはしだれうめ)
        
1934年(昭和9年)の建築。 建築様式は鎌倉時代。後醍醐天皇の木像を安置。
    

    
法堂(はっとう)
            
創建以来八度も大火に遭ったと記録されていますが明治維新の蛤御殿の戦いで薩摩藩の砲火で堂塔伽藍のほとんどを焼失す。唯一残った禅堂を移築し、法堂兼仏殿となっている。
      
from天龍寺pamph  
法堂の天井中央に直径九メートルの円相の中に躍動する暑さ3cmの杉板159枚を張り漆の上に白土、さらに八方睨み龍が墨色で描かれています。
撮影禁止につき 
平和観音と愛の泉
   
     元来天龍とは天皇のことで、ここに竜門、竜天井がある。天龍寺は禅の京五山の第一座である。


      
  
竹林へ   天龍寺 北門からはいります。

  
 
9:49
  
天龍寺の北門から竹林(100mに渡る)を通って 少し進むと野宮神社が見えて

縁結びや子宝安産祈願で訪れる男女が多い。
野宮神社(ののみやじんじゃ) 創建:809年 源氏物語「賢木の巻」に登場する古社。
     
10:07
野の宮の斎宮の平安時代からの歴史はすでに終了しているが天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王(内親王あるいは女王)が伊勢に赴く前に身を清める場所であった。黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられた。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。
皮を剥いでいないクヌギを使った黒木の鳥居は日本最古の鳥居様式である。
   
 (京都市右京区)斎宮行列ー2019 
歴史     
野宮エリアはかつて、天皇の代理として伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢に下る前に身を清める場所でした。 野宮神社で10月に開催される斎宮行列は、平安京から伊勢神宮まで向かった斎王の行列を再現したもので、天竜寺の前を通り渡月橋を往復して桂川の船着き場で雅楽が奏でられる中禊を行う行事です。 うら若き皇族女性の悲劇のお社 「斎宮(斎王)」とは、天皇が新たに即位 するごとに、天照大神の御杖代(みつえしろ)と して伊勢神宮に遣わされた斎王(未婚の内親王もしくは女王)のこと。この歴史は飛鳥時代の天武天皇の頃にはすでに確立されており、南北朝時代の後醍醐天皇の頃まで およそ660年間、64人の姫君が遣わされていたと言い伝えられています。
    
現在は本殿よりも右のほう、苔の庭にまつられたいる白福稲荷
しらふくいなりのほうが信仰として生きているらしい。
   

  
        
      10:14
                             
     
野の宮に私もそうだのだが多くのハイカーも、うらぶれたあたりの趣きにひきつけられて訪れたのでは。 美しい藪に囲まれた野の宮は立ち去りがたいところだった。
 
10:22

             10:42

落柿舎(らくししゃ)は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵である。
松尾芭蕉の弟子・向井去来の(遺跡)別荘として使用されていた。その名の由来は、木庵の周囲の柿(40本の柿の実が一夜にしてすべて落ちたことによる。.


芭蕉は3度来庵している。去来は蕉門一の俳士で芭蕉に最も信頼した高弟であった。 師翁の言葉に 「洛陽に去来ありて、鎮西
ちんぜいに俳諧奉行あり」 と称たたえられた。
 
  
柿主や梢はちかきあらし山」 去来                             10:49
              
洛中第一に古いとされる向井去来が詠んだ上記の句 碑は井上重厚
いのうえじゅうこうが建立。重厚は芭蕉の遺徳顕彰に生涯をささげた蝶夢ちょうむの門人であり、荒廃していた落柿舎を再興した二世庵主。 なお芭蕉庵の墓のある大津の義仲寺 ・無名庵主も兼ねた。 

                   
五月雨さみだれや 色紙へぎたる壁の跡」 芭蕉 
芭蕉が「嵯峨日記」の最尾にしるした句。 「嵯峨日記」から晩年の芭蕉が深く去来を信頼し心から落柿舎に親しみくつろいでいる様子がうかがえる。
    
別れ惜し 紅き老梅香 落柿庵」  情緒ある落柿舎ここにもう少滞在していたいけれどおわかれです。. . .記念に一句詠んでみましたが. . . 句 になっていればお慰み!ha!  
名月や 浮世に曇る 人の影」         重厚       
江戸時代の貴重な建物 ・落柿舎 が井上重厚、蝶夢氏によって再興された。
10:59     
お陰で懐かく住まい、中、外、道具など懐かしい光景を見ることができ心あたたまりました。落柿舎を後に次に北の天満宮に向かいます。
北野天満宮   菅原道真公ゆかりの学業成就の神様  
北野天満宮は、菅原道真公をご祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社です。        天神信仰の発祥の地であり、親しみをこめて「北野の天神さん」、「北野さん」と呼ばれています。
   
菅原道真は学問の神さまとしても知られています。道真は幼い頃から勉強熱心で最年少で国家試験に合格した学問の神様といわれています。平安初期きのうまで右大臣(899年)の位におりましたが左大臣 藤原時平ふじわらのときひらに彼とその一家はおとしいれられ、不遇のうちに生涯を終えた。 その後、疫病、落雷、火災、が都を襲った。兄の時平の謀計に加わらなかった忠平ただひらの子 師輔もろすけは道真の怨霊を鎮めるべく厚く祭ることになった。結果時平の系統はおとろえ師輔には信望があつまりさかえて道長、頼通よりみち.....近衛家このえけまで続く。
ご由緒

北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、のちに「学問の神さま」、「芸能の神さま」として知られるようになった
             
▲高さ11.4mの
「一の鳥居」
北野天満宮の創建は天暦元(947)年。平安時代の中ごろに遡ります。道真公の乳母を務めていた多治比文子(たじひのあやこ)らが、この地に道真公をお祀りしたのが始まりと言われています。一の鳥居を通り、少し歩くとこちらの「楼門(ろうもん)」が見えてきます。壮麗な桃山時代建築様式の巨大な楼門は迫力満点。年始にはその年の干支を描いた「ジャンボ絵馬」が掲げられることでも知られています。
楼門へ進む
   13:21
楼門
楼門の上部に掛けられた額には、「文道大祖 風月本主」の文言が刻まれています。 平安時代中期の学者・慶滋 保胤(よししげ の やすたね)、大江匡衡(おおえのまさひら)が菅原道真公を讃えた言葉です。年末に奉掲するジャンボ絵馬も、京の師走の風物詩として知られています。                                 13:23
宝物殿横の臥牛と梅
    
三光門(重文
楼門と社殿の間に立つ中門。楼門と同じく桃山様式の建築で、天満宮のシンボル的な存在。重要文化財に指定されています
         
社殿(国宝)
ご祭神菅原道真公をおまつりする本殿と拝殿、石の間、楽の間を連結した日本最古の八棟造(権現造)です。現在の建物は慶長12年(1607)に造営されたもので、桃山時代の華麗な装飾とともに、歴史的に非常に貴重な建築とされています。
 

          
光門をくぐり社殿へと向かいます。
国宝に指定されている社殿は、本殿と拝殿、石の間と楽の間を連結した日本最古の「八棟造(やつむねづくり)」で、神社建築の歴史を伝える貴重な遺構です。現在の社殿は、豊臣秀吉公の遺命により豊臣秀頼公が慶長12(1607)年に造営したもの。 三光門や楼門と同様、極彩色で絢爛豪華な装飾は見るものをひきつけます。社殿の裏側、境内の北西の角には「一願成就のお牛さま」が祀られています。数々ある牛のなかでも、こちらの牛はなでると一つだけ願いが叶うと言われていて、取材した際も多くの人がそのご利益を求めて列をなしていました。
天満宮 宝物館                   
        

 

摂社 地主社

当宮の創建以前からある、境内で最も古い社です。天地すべての神々「天神地祇」をおまつりしています。

当宮には、菅原道真公ゆかりの梅50種約1,500本があり、花の時期には約2万坪の境内一円で紅白の梅が例年12月中旬から咲き競います。早咲きの梅は例年正月明けから開花、咲き繋ぎ、3月末頃まで楽しめます。
         
 
「東風(こち)吹かば匂いおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」  道真公御歌
菅原道真公が九州に流される時、庭に咲く梅の木を詠んだ歌。
 
当宮のあちこちで ほのかな甘い香りただよう梅の花がお互いに競って咲いてるかの様 優美な華やかさを多く見せてくれました。 Thank you!
   

 
この伝説により北野天満宮の神紋には梅があしらわれています。北野天満宮には50種約2000本の梅が植えられ、2月初旬から3月末までは梅苑(有料)も公開されます。梅の香りに誘われるように梅の季節には大勢の参拝客が訪れます。
 
梅花祭は、菅原道真公の月命日に行われ、約900年の歴史を誇る。梅苑の公開期間中は、お茶とお菓子を供す茶屋も開かれます。例年2月25日には「梅花祭」と「梅花祭野点大茶湯」が行われます
  
13:44
ここで北野天満宮を後にして、一日乗車券使用ですから「北野天満宮前」から「金閣寺道」まで直通は 101か102系統(いずれも北大路ターミナル行)です。所要時間は7分。毎時4本~6本運行。

世界遺産 ・臨済宗相国寺派 ・室町時代(1397)足利義満開基 ・禅僧・夢窓疎石開山
金閣寺(鹿苑寺)昭和30年(1955)再建。平成6年(1994年)世界遺産。
応永27年(1420年)に北山殿は義満の遺言により禅寺となり義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。...昭和25年(1950年)7月2日放火により国宝の舎利殿(金閣)、足利義満坐像の木像(国宝)、運慶作観音菩薩像春日仏師作の夢窓礎石像、阿弥陀如来像
焼失。
  
金閣の舎利殿は、世界遺産、特別史跡、特別名勝です。
この地は鎌倉時代西園寺家公経(さいおんじきんつね)の別荘「北山第)が在りましたが、室町幕府第三代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が気に入り応永4年(1397年)に西園寺家さいおんじかから譲り受け、北山殿(北山第)と呼ばれる大邸宅を造りました。義満はここで政治の実権を握りました。1401年これまで途絶えていた明(中国)との国交を回復させることで勘合貿易におって莫大な財が蓄積し、北山文化が花開きました。
総門へ
              
総門(禅寺の入り口の表門は総門という。)
総門は天皇家から下賜された。屋根の丸瓦には寺紋の、天皇家から下賜された由緒正しき紋が「五七桐」が刻まれています。
    
庫裡くり 1504年創建。禅宗様式の建物。庫裡は寺の台所です。

             
         
  五用心  (五戒)
一. 生命いのちあるものを殊更に殺さざるべし。 二. 与へられざるものを手にすることなかるべし。 三. 道ならざる愛欲をおかすことなかるべし。 四. いつわりの言葉を口にすることなかるべし。  五. 酒におぼれてなりはひを 怠ることなかるべし。
厳しい「5戒」を目にしました。読んでみると人として生きていくのに守らなければ行為が記されていました。「当たり前だね」といってしまえば それでいいとも思えますが 後で反省もあるのでは?!   明治神宮入り口の壁に明治天皇のお言葉書かれていたのが思い出されます。 My Tokyo編へもぜひ遊びにいらしてください。
 
                

金閣寺舎利殿 世界遺産、特別史跡、特別名勝
  14:15
金閣寺は足利義満が西園寺公経の別荘を譲り受け山荘北山殿にしたのが始まりで、金閣寺を含めた庭園など一帯が極楽浄土を表しています。

     
金閣の一層(法水院ほっすいん)は、寝殿造り(白木の造り)で宝冠釈迦如来像と足利義満坐像が安置されています。二層(潮音洞ちょうおんどう)は、武家造り(金箔張り)で、岩屋観音坐像と四天王像が安置されています。最上部の三層は究竟頂(くっきょうちょう)は、禅宗仏殿造ぜんしゅうぶつでん(金箔と漆張り)でお釈迦様の仏舎利である遺骨が祀られているといわれています。ただし、金閣の内部は一般公開されていません。

杮(こけら)葺き宝形造の屋根には黄金に輝く鳳凰が据えられ、金閣という名の通り眩いばかりに金色に輝く楼閣建築である
       
初層内部(宝冠釈迦如来像と足利義満像がみえる)

鏡湖池
   

金閣を水面に映す鏡湖池を中心とする池泉回遊庭園で、国の特別史跡 ・ 特別名勝に指定されている。鏡湖池には最も大きな葦原島(日本の本州を意味する) や鶴島、亀島などの島々のほか各地の大名から競って献納された畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。
  
舟屋
  
一層西側には舟を出す為の舟屋が設けられている。まさか室町時代の舟屋ではないでしょうが当時 舟に乗り、和歌や管弦をしたり池泉回遊式庭園の意味深い名石を大いに観賞したことでしょう。金閣の近くには夜泊石(よどまりいし)と呼ばれる石が複数浮かんでいるが、これは夜間に舟を出した際に舟を停める為の石であったという。

      

昭和和25年7月2日朝青年僧によって、この金閣が焼かれた。仏像もである。三島由紀夫著「金閣寺」では犯人がその美しさ故.....とあるが私には犯人はかなり精神の病が超進行していた と思う。....
周囲に気づいてた人がいた筈だが野放しにした方の責任もある..... 
今金閣寺は輝き衣笠山 周囲自然山や緑の環境と合体united実に京都でした。その再建には当初予定2800万とは以外....やはり剥げ落ちて結局7億かかったんですね。


    

方丈  重文
本堂に相当。  慶長7年(1602年)に創建され、延宝6年(1678年)に後水尾天皇の寄進により再興された。 平成17年(2005)から解体修理がなされ平成19年(2007)完成。

           

単層入母屋造で桟瓦葺。 本尊の聖観世音菩薩坐像に、帝釈天像、梵天像、金閣寺の創建者の足利義満像など、貴重な仏像を安置。 お堂の内部には狩野派の絵師による
襖絵もあります。



龍門瀧&鯉魚石

季節柄 瀧の水少なし でしたから鯉は相手不足か 瀧を眺めているようでした。 ザザッとかぶるほどでないと鯉さんは元気がでないのですネ。
                     


白蛇の塚
   
安民沢
あんみんたく池の中央あたりに5輪石の塔が見えます。これが西園寺家の鎮守である「白蛇の塚」ですが 当時は「5輪の塔」 と呼ばなかったのでしょうか?白蛇の塚 が親しめる名ではありますが。?

夕佳亭
江戸時代の茶道家 ・金森宗和 かなもりそうわが好んだ数奇屋造りの茶席で、1624年から1644年に創建。 ここから眺める夕日に映える金閣が殊に佳いことで「夕佳亭」と名づけられました。

夕佳亭 せっかてい    
夕佳亭は、後水尾天皇を招待するために建てられた茶室です。
現在の建物は、1874年に再建されたもの

   
 
            

      
正面の床柱とこばしらが有名な「南天の床柱」です。 その右にある三角の棚が「萩の違い棚、中央の古木が「鶯宿梅」です。
龍安寺
  15:13
龍安寺りょうあんじは永観元年(984年)に創設され、後 左大臣・藤原実能(ふじわらのさねよし)が山荘を営み、徳大寺を建立しました。宝徳2年(1450年)室町幕府管領・細川勝元(ほそかわかつもと)が徳台寺の寺を同家から譲り受け、その子 正本が、僧義天(ぎてん)を開基として現在の寺を造った。
      
かっての徳大寺庭園は、いま龍安寺の前にある池にわずかに名残があるようだ。池は平安朝の池泉舟遊式庭園の形を残してある。 
      

     
    
             
作者は 相阿弥
そうあみ とか 夢窓国師むそうこくしとか 説あり。 夢窓国師は詩腑に優れその一つに「盆石腑」、枯山山水といえば夢窓作ではあるが。.....?
      
砂と石だけの庭に整えられるのは、足利時代~江戸初期ごろまでであろう。白砂を敷くことが一般に足利時代から始まった。いろいろの説がある。 砂の上の熊手の筋模様は(季節を表している、石庭は比叡山を中心に山々を表している、「虎の子渡し」の石組み/15個の石14に見せる)等...
 
       
石庭は縦約10メートル、横約25メートル(約75坪)。低い練塀で庭を囲んでるので広く見える。
      
1975年に英国のエリザベス女王が訪 れた際、石庭を称賛したことで、今や世界中に名を馳せる人気の観光スポットとなりました。

    
群仙図の一部と琴棋書画図の一部の襖
 
建物は、慶長11年(1606)に織田信包のぶかね(信長の弟)によって建立された方丈で、この中にもともとあった襖6面であり、狩野派の絵師によって制作されたと伝えられています。 明治維新の廃仏毀釈の影響により明治28年(1896)に寺から出て以来115年ぶりに帰還されたことを記念してここに特別公開しております。「群仙」とは、中国の仙人を数多く描いたもの「琴棋書画」とは、中国は歴代のはじめ(7~8世紀)頃より、琴・棋・書・画の四芸が風雅なたしなみとして扱われ、これらすべてに熟達してこそ、博学多芸な士君子であるといわれていた。「群仙図」「琴棋書画図」ともに日本では室町時代以降、屏風絵、襖絵などの画題に多く用いられている。
 
幸いにも私が訪れた時は公開中でした。
  
  
   
ここで龍安寺とお別れです。 今日の宿泊は 宿坊です(大心院).龍安寺から嵐電(龍安寺)まで徒歩で10分。さらにそこから徒歩で妙心寺北門まで約25分(1.5k )へ向かい
ます。
      
ここにも犬好きで道路に座り込みで 無心にワンちゃんをハグしてる坊や なんとも可愛い パチリ!

宿泊 :大心院の宿坊   朝食付き1泊 5000円
大心院は京都・妙心寺内にあります。妙心寺塔頭で1492年細川政元が創建しました。大心院は僧や行脚の宿坊いわゆる宿泊施設でした。それは引き継がれ現在も宿泊することができます。 庭園は「切石の庭」と「阿吽の庭」がありいずれも美しい姿を今に残し見せてくれます。

2/11(月) 妙心寺大心院、仁和寺、神護寺    
妙心寺大心院
室町幕府の管領かんれい細川政元ほそかわまさもとが建立。昭和の作庭家、中根金作による枯山水庭園「阿吽の庭」が有名です。最近では ・・・会館とか呼ばれる宿坊が多い中 こちらは簡素な木造建築のむかしながらのお寺での宿坊でした。残念ながら朝のお勤めは和尚さんが本院にいかれる日に当たりできませんでしたがお部屋は「阿吽の庭」が目の前にあり、美味しい朝食を頂いた後もしばしお庭を眺め.....静かな風情ある時間を過ごせたことは良い思い出になりました。
   
阿吽庭
あうんていとは通称であり、正しくは方丈東庭といい、石で仏、菩薩を象徴した第二の本堂です。東南隅に筑山を設け苔地とし三尊手法で石組み中心に左右に数個の石を配し下部には曲線で白砂面の変化をもたせています。
     

     

東西に長く、南北にやや狭く長方形の地割でできてます。築山部には多数の樹木を用い伝統的な作風の風韻温雅な点が見所です。
         
宿泊は私を含め3名のみでしたが 静かなお寺の雰囲気の中でのお食事は格別、味深く一品一品どれもおいしく頂きました
      
       

 
苔、白砂との陰陽、5色17個の岩との調和も鮮やかです。
    四方仏

       9:39        
9:45
大心院を後にします。 妙心寺北門から徒歩で嵐電北野線妙心寺駅、きぬかけの路を通って仁和寺にむかいます。妙心寺北門からの徒歩時間は約10分~15分 761m
10:17

真言宗御室派総本山
仁和寺
仁和寺は仁和2年(886)第58代光孝天皇によって建立を発願され宇多天皇が光孝天皇の遺志を継がれ任和4年に完成されたのでので仁和寺となりました。
延喜4年(904)宇多天皇がここで出家されて「御室」とよばれる(住居)を営んで法務の御所としました。 後、明治維新まで代々皇子皇孫が門跡寺院の筆頭にありました。
堂塔伽藍は応仁の乱(1467-77)で多くを焼失、寛永・正保年間(1624-48)に再興した。金堂(国宝)は御所紫宸殿を移築。御影堂(重文)も旧清涼殿の材を用いて建立した。霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、御室相承記(国宝)、吉祥天立像(重文)など多くの寺宝を所蔵。遅咲きの‘御室桜’は有名で名勝。旧御室御所御殿の御所風たたずまい、豪華な襖絵が見事。1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
御殿入口
   10:17
御殿
    
ここは仁和寺の創建者、宇多天皇が出家後に「御室」と呼ばれる僧坊を建てた場所でもあり、現在は御所風の建物が建つことから「旧 御室御所」そんな御殿の建物のひとつ、「宸殿」(しんでん)は江戸時代に仁和寺を再興した際、京都御所から移築されましたが、明治20 年(1887)焼失し現在の建物は大正2年(1913)に建立。

御宝流


   
白書院  説明文      ↑
この建物は明治20年(1887)仁和寺御殿が焼失したため、仮宮殿として明治23年(1890)に建てられたものである。その後宮殿等の建物が再建されると 白書院 と呼ばれるようになった。白書院の襖絵は昭和12年(1937)に福永晴帆によって待つを主題にした四季おりおりの景色が描かれている。

上品で洗練された優雅さを併せ持つ襖絵の美しさをここに見る思いです。
        
回廊で見ました。 胸がときめく美を見つけ幸いです。 それに続いてすぐ近くにはなんと優美な枠組みされた引戸であろう。金堂 国宝  移築:江戸初期 寛永年間(1596~1615)造営の内裏紫宸殿を寛永年間(1624~44)に移築したもの。天正年間に織田信長が造営した御所旧建築物がこの金堂である。 当時の宮殿建築を伝える現存最古の紫宸殿として国宝にしていされている。堂内には、本尊阿弥陀三尊像や、四天王像などが安置されている。
*紫宸殿=御所の中心的建物
*宮殿建築=天皇が使用する建物の総称      拝観は特別公開日のみ。

金堂   国宝
金堂(国宝)は御所紫宸殿を寛永年間(1624~1644) に移築したもので、近世の寝殿造遺構として重要。現存する最古の紫宸殿である。   宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺から瓦葺に変えるなど改造されたものの宮殿建築の雰囲気を良く残している。
  
金堂の屋根の上には、亀に乗った仙人がいます。黄安は、3千年に1度しか水面に顔を出さないとされる亀を3度も見たことがあると伝えられています。
                 
金堂を拝観した後は、東隣の経蔵に向かいます。

経蔵 入り口        拝観は特別公開日のみ。
      内部は撮影禁止

経蔵 重文   建立 寛永(1644)~正保しょうほう(1644~48)
建物は禅宗様で統一されている。内部には 釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩 などが安置されている。壁面には羅漢が描かれている。 中央には八面体の回転式書架(輪蔵、768の経箱)が設けられている。
*禅宗様=鎌倉時代(1192~1333)禅宗と共に入ってきた宗の建築。
  

.以前 テレビでブータンの寺院の前にこの輪蔵が供えられていて 参拝者は次々にをぐるっ回転させているのを見ましたが、まさにこれ!一回廻せば経典全部を読んだのと同じ功徳が得られるのだとか...ここでは現在回転は許可されておりませんが輪蔵を一周すれば御利益がいただけるようです。

五重の塔  重文 寛永14年(1637)建立。 総高 32.7m 本瓦葺.
              
各層の幅に差が見られないのが、特徴です。初重西側には、大日如来を表す梵字額が懸けられています。 隅棟には鬼瓦がありますが南東隅棟のは「龍」です。五重塔の内部は極彩色で彩れた4つの柱に須弥壇があり、中央には塔の重心をとる極太の心柱が1本据えられています。 

仁王門 (山門) 重文 1641-1645年徳川家光の寄進によって建立。平安時代の伝統を引き継ぐ純和様建築で南禅寺三門(禅宗様建築)、知恩院三門(禅宗様)と ともに京都三大門のひとつである。 門の左右に金剛力士像を安置していることで仁王門の名がある。
  12:01
 

    「遼郭亭」「御影堂」は次回参拝します

仁和寺を後にして神護寺へ
神護寺へアクセス
今回は珍しくもJRバス(いつも市バスか京都バス利用)に乗車する。 幸いにも仁和寺・仁王門前から山城高尾行きバス30分毎に来る。やがてバス停・乗り場4で 御室仁和寺 ~山城高尾行に乗車する。20分程で神護寺に着くことができるが、ここ清滝川の自然美の醍醐味は格別である。そこは京都では珍しい古生層線上を流れているので谷が深く、崖は急で秋には朱色を流す紅葉は息をのむような美しさの名所として知られている。

バスは御室から福王子を通って周山街道を北へ、民家もまばらになって山が深く.......
槙尾山聖天宮
  12:47 
参道へは清滝川に沿って進む。清滝川は京都では珍しい古生層線上を流れているので谷が深く、崖は急で朱色を流す紅葉は息をのむような美しさの名所として神護寺付近はひろく知られている。
西明寺(神護寺別院)
重文

    
 周山街道沿いに古刹が! 興味深いのですが次回にします。
神護寺
(正式名:高雄山神護国祚真言寺)  山号:高雄山  開祖:和気清麻呂  創建:天長元年(824)   宗派: 高野山真言宗  本尊:薬師如来     
神護寺は和気清麻呂氏の私寺であったと思われる 神願寺(官立寺院)と 高雄山寺が合併して(824)頃できた。その時から「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」といった。神願寺の本尊は今と同じ平安初期の薬師如来であったろう。これに対し高雄山寺は、清麻呂の子、弘世(清麻呂の長男)が 伯母・広虫の法事を営むためここで最澄から法華会(ほっけえ、法華経の講説)天台の講義を聞いている。やがて最澄と空海は渡唐する。最澄一年 ・空海は二年で帰国した。 空海は帰国後、この寺に住み澄他百数十人に真言両界の灌頂を授けた。 後、空海6年後には高野山を開くことになった。
    13:03  
神護寺は空海の後、平安末期には衰退していた。 中世、神護寺再興に力があったのは平家物語で知られる武士出身の僧・文覚であった。復興まで文覚上人ぶんかくしょうにんは後白河法皇の怒りにふれて伊豆の国へ流された。 これが彼には幸いした。そこで頼朝と知り合い挙兵をすすめ、やがては寺領の寄進をうけて京都に戻る。性懲りもせず神護寺復興願い出る。「意志強ければ道あり」となり 根負けした法皇、自ら行幸して鳥羽天皇の紺紙金泥一切経こんしこんでいいっさいきょう、をこの寺に戻し高尾曼荼羅をとりもどした。復興(1185)の大きな橋渡しとなった。 ‘初一念はとおす’のお手本ですネ。文覚が清麻呂の縁をおもい、空海最初の遺跡であることを考えれば神護寺への情熱が理解できる気がする。
楼門
     13:18
清滝川畔から400段の石段の参道を上りつめた先に建つ正門。両脇に二天像を安置する。毘沙門堂などと同様、元和9年(1623年)の建立とされる戦国」時代に入り 天文6年(1547)の兵火で、金堂、講堂、塔他焼失。徳川家康によって一部復興したが、いまの金堂や多宝塔は昭和に建てられた。文覚はに8年間で復興したは実に400年かけての現在ということになる。 情熱度の違いでしょう。 

明王堂
       
大師堂
         
重要文化財の弘法大師像を安置しております。

五大堂
      

             
         なかなか見れば見るほどに味わい深いオブジェですぞ!
    
五大堂
      
毘沙門堂
      
毘沙門堂  毘沙門天立像を安置しています。
      
金堂
  
楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であるが、建築年代は新しく、昭和9年(1934年)に実業家山口玄洞の寄進で建てられたものである。須弥壇中央の厨子に本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。
      

  
神護寺多宝塔の特別拝観日 春、秋それぞれ3日間のみ。
春季:5月13日から5月15日秋季:10月の体育の日を含む土日月

      withtakao

      
JR山城高尾バス停へ
  
清滝川の名は清涼な水が滝のように流れることに由来するというが平安時代空海は唐に渡った。長安、青龍寺で師・恵果より密教を学ぶ。日本に帰る際、寺の守護だったという竜女(清滝権現)が空海守護のために海をはるばるわたってきたという。
      

               

    14:45
JR山城高尾バス停から京都へ
JR山城高尾15:41乗車~JR京都地下鉄鳥丸線着16:31
   
         
        宿泊:スーパーホテル 京都四条河原町
        
2/12(火) 
清水寺~産寧坂(三年坂)~二寧坂(二年坂)~高台寺、八坂神社
宿泊:ファーストキャビン河原町三条
スーパーホテルでの朝食後、 ホテルから目と鼻の先の距離にある錦市場へ行くことに。目的は午前中なら はも丼が食べれるとのことで。 ha! 恥ずかしくも朝食2回目の鱧丼は 2回目のせいか?ふつうに美味しいお味でした。 この後、清水寺へ向かいます。
       8:15
四条河原町バス停乗り場9 から清水寺行き207に乗車5分程で到着, 東山安井バス停清水通 1に下車。そこは参道 ・松原通(清水坂)、清水寺まで通り両側は商店ぎっしりならんでる。グルメ、茶房、グッズ、お土産店など、元気のよい店員さんの呼び込み耳にしながらをまっすぐに進むと「仁王門が見えます。。 

                    
清水寺へ 露出ホワイトバランス無視で撮影のため映像不鮮明!Sorry!!
    
 
音羽山 ・北法相宗の本山 ・世界遺産   
清水寺 本尊:木像十一面観音像(重文)千手観音菩薩(秘仏)創建:宝亀9年(778) 開基:延鎮  縁起によれば778年(宝亀9)大和の小島寺(こじまてら)(南観音寺)の僧賢心(けんしん)(のちの延鎮)が音羽の滝で行叡(ぎょうえい)なる僧からこの土地を譲られ音羽の近くに草庵を結び千手観音を祀ったのに始まる。のち鹿狩りに訪れた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が延鎮上人に殺生を戒められ、長岡京の宸殿を移築して清水寺を創建。妻三善(みよし)高子と堂舎を建立、805年(延暦24)桓武天皇が土地を施入(せにゅう)。1063年(康平6)の焼失以降しばしば火災にみまわれる。隣接する祇御社(現八坂神社)静閑寺とは境などでもめ闘争にまで発展した。応仁 ・文明の乱の1469年東軍のほうかで焼失。1479年(願阿弥が勧進に着手。1484年本堂を再建し成就院を開く。1629年焼失するが1633年幕府の援助で再建された。現在の本堂(国宝)はこのときのもので急崖に懸造の形式で建てられ本堂前面は「清水の舞台」で知られる。1994年(平6)に「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録。

「目隠しの門」
仁王門
       11:26
仁王門(重要文化財) - 境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士 ・吽形と阿形の(仁王)像(を安置する。室町時代の建立で、馬駐(うまとどめ)、鐘楼とともに寛永6年(1629年)の大火をまぬがれた。別名目隠しの門とは清水寺開創当時こんな高い場所から「御所」を見下ろすのは失礼であるという理由から建てられたと言われます。 大 きさは、幅が約10メートルで奥行き約5メートル、高さは約14メートルにもおよぶ
      11:46
清水寺へ 露出ホワイトバランス無視で撮影のため映像不鮮明!Sorry!!
    
   

        

      

西門(にしもん)
  
西門(にしもん) 重文         極楽浄土への入口とされる門
仁王門をくぐって右方の小高い位置に建つ。寛永8年(1631年)の建立。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風(のきからはふ)を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門である。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股(かえるまた)などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のように見え、特殊な用途をもった建物と推定されている。
      11:42
隋求堂(ずいぐどう)
仁王門から参道を進んだ正面に位置する。もとは塔頭慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により、享保20年(1735)に建立された。本尊は大隋求菩薩像(秘仏)。堂の地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われている。随求堂
本尊の秘仏大隋求菩薩坐像は、1728年(享保13年)に造られた木彫像で像高110センチ。
 

     
   
         
三重塔   露出ホワイトバランス無視で撮影のため映像不鮮明!Sorry!!
                  
三重塔(重要文化財) - 西門の先に建つ和様の塔。寛永再興時の再建。高さ約31メートルの三重塔は、日本に存在する三重塔の中では最大級の建造物です。昭和62年(1987年)に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には、曼荼羅の密教世界が造形されて、中央には大日如来が安置されている

開山堂(田村堂)重文

開山堂(田村堂)(重要文化財) - 経堂の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。開山堂とも称する。寛永再興時の再建。内部には開放形の厨子内に坂上田村麻呂夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀る。いずれも清水寺創建に関わる人物である。堂内は通常は非公開。 

本堂(清水の舞台)  from pamph

清水寺の本堂は、改修中。   2017年より本堂 ・舞台の改修工事で舞台と本堂が木組みなどで覆われてるが参拝は可。完成は2020年予定。修学旅行できて以来の参観でしたが生憎 改修工事中。ですが50年振りの改修ということで忘れられない良い想いでになるのでは!.......本堂(国宝)は舞台造で著名。平安時代から能や歌舞伎などが奉納されてきた。
    
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  12:02

   

   12:00

     12:14

「清水の舞台から飛び降りた」気でせよ、と何かことを決めかねてる時 よく言う、聞く言葉。実際、江戸時代には飛び降りた人がかなりいたとか。 清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件に上り、生存率は85.4パーセントであった。明治5年(1872)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた。
               12:02
本堂
清水の舞台(国宝)は高さ約12メートル・正面約18メートル・側面約10メートルで、広さ約190平方メートルです。清水の舞台は最長約12メートルの柱など139本のケヤキの木を釘を1本も使わない地獄止め ...


    12:09
地主神社(縁結び) 本堂の北にある、元は清水寺の鎮守社で、現在では縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年(1633)の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にある狛犬は地主神社のものである。明治の神仏分離により清水寺から独立しているが、歴史的経緯から世界遺産「古都京都の文化財」の清水寺の一部として登録されている。
                     
清水寺 
阿弥陀堂
    
阿弥陀如来像
            

                  12:29

     
奥の院
「音羽の瀧」の真上に建ち、本堂の全貌を見渡すことができる。 開基行叡居士ぎょうえいこじ と、開山延鎮(えんちん)が修行した旧草庵跡と伝えられている。 現在の建物は、1633年(寛永10年)の再建(重要文化財)。     
 
       
音羽の滝
奈良の僧・賢心(けんしん)、後の延鎮上人(えんちんしょうにん)が、観音さまの夢告(むこく)によってたどり着いたのが「音羽の瀧」。この瀧のほとりの小さな庵から清水寺は始まりました。「音羽の滝」は清水寺の原点なのです。1000年以上も湧き続けているという名水中の名水で、日本10大名水の筆頭でもあります。
               
この滝は、三筋の滝から構成されており、そのご利益は、向かって左から「学業成就」真ん中「恋愛成就」右側「延命長寿」の順番とされているようです。舞台から眼下に見える3本の細い滝は「音羽(おとわ)の滝」。この滝の清水こそが寺名の由来で、断層から湧き出す水が分岐して流れ落ちています。
                    
ミネラルを豊富で有機物質量が限りなくゼロに近い結果が出ています。「音羽の瀧」清水は、とてもおいしい天然の名水。早朝、ペットボトル持参で、水を汲みに来られる方もいられます。また、神社では参拝前に手と口をすすぎますが、「音羽の瀧」の霊水は吐き出さず、飲むのが正解。 再び不動明王を向かれ、願を念じながらいただくのがベストです。
アテルイとモレの慰霊碑
坂上田村麻呂のゆかりから、平安建都1200年を期して1994年1994年に建立されたもので、音羽の滝から仁王門方面へ戻る道の左手に立つ。碑面には「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」とある。
         
アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑なに抵抗した蝦夷(えみし)の首長と副将。 陸奥国(岩手県)へと侵出した朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂そして坂上屯麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。この鎮魂・顕彰の碑は平安建都1200年の際、両雄ゆかりの岩手県水沢・江刺地方出身の関西在住者や地元の有志によって1994年に建立されました。

南苑
 
   12:46

   12:48
       
  12:51

  

 産寧坂さんねいざか(三年坂)重要伝統的建造物群保存地
    
みやげ物店や甘味処が軒を連ねる。情緒たっぷりの坂道。清水坂と五条坂が交差
する地点から、高台寺方面に続く。三年坂という別名や、名前にまつわる怖い噂もある。
           

   

   
三年坂で芸を見せてくれるワンちゃんがいました。 Great Wanchan!!

二寧坂(二年坂)重要伝統的建造物群保存地
産寧坂から高台寺へ続く200mほどの坂道。産寧坂同様、風情あふれる道沿いに
飲食店やみやげもの店が立ち並ぶ。
  

  
鷲峰山 (別称)蒔絵の寺 
高台寺 正式名:高台聖寿禅(こうだいしょうじゅぜん) 臨済宗建仁寺派。 創立慶長11年(1606) 
開基:高台院、 重要文化財:霊屋、開山堂、絹本着色豊臣秀吉像、豊臣秀吉消息ほか。
高台寺は北政所の出家後の院号にちなむ。秀吉の夫人 北の政所ねねが豊臣秀吉の冥福を祈るため徳川家康の命で土井利勝からの助力を得て建立した寺院。ねねは亡くなるまでの17年をこの地で過ごした。霊屋(おたまや)の堂内装飾には北政所所持の多数の蔵する蒔絵調度類が用いられいることから「蒔絵の寺}と呼ばれる。 
庫裏
       
中央やや左に祇園閣が見えます。
 
傘亭  重文
       
境内東奥の小高い場所に位置する。伏見城から移築したものとされ、千利休好みの茶室と伝える(ただし伏見城建設は利休の自刃後)。秀吉が舟遊びの後に使用したと伝えられている。宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。

遺芳庵
  
方丈・書院の背後にある田舎屋風の茶室で、近世初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てられ、明治41年に紹益の旧邸跡から移築されたと…。吉野太夫こと松田徳子は京都に生まれ、7歳で島原に預けられている。初代吉野太夫は安土桃山時代の人物で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされており、徳子は14歳で二代目吉野太夫の名跡を継ぎ、天下の名妓と謳われるようになったそうだ。和歌、連歌、俳諧、琴、琵琶に優れ、さらに書道、茶道、香道、華道、囲碁を極めたと云う。全盛期の吉野太夫は井原西鶴の「好色一代男」に前代希代の遊女と記されるほどで、その才色兼備は遠く中国まで伝わっていたそうだ。
              
庭園(史跡 ・名勝)は小堀遠州作。桃山時代創立。
      
観月台(重文)
    
ここはねねが秀吉を偲び月を眺めたといわれます。

開山堂
(重文)
   
書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。 

高台寺の塔頭寺院
円徳院 臨済宗建仁寺派、本尊:釈迦如来 慶長10年(1605) 開祖:三江招益
圓徳院は、備中国足守藩主で北政所(高台院)の甥にあたる木下利房(ねねの兄の木下家定の次男)が、伏見城の北政所化粧御殿をこの地に移築して自らの邸としたことに始まる。利房の死後その菩提をとむらう寺となり、利房の院号「圓德院」をそのまま寺号として高台寺の塔頭となる。 北政所ねねはここで晩年の19年間を過ごし、付近に建立した高台寺に日参して秀吉の菩提を弔ったといいます。
正門 唐門
   
上間の間      「雪月花図」 襖   志村正 作 
      

                       
              
障壁画    「山水図」 襖  長谷川等伯 作 
        

  15:02
北庭
   15:18
北庭 - 指定名称は「旧円徳院庭園」。北書院の東に位置する。賢庭が作庭した伏見城伏見城北政所化粧御殿前庭の池泉回遊式庭園を移築したものだが、その際に敷地面積が縮小したことからこれを枯池泉座視式に改めている。その後さらに小堀遠州によって整えられたのが今日にまで伝わる姿である。庭東の築山から枯滝を枯池に落とした2島を配置してこれを3本の石橋で結ぶという、桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園の趣をもったもので、国の名勝に指定されている。全体に巨岩を多数配置した珍しい庭園としても知られる。
ねね様の晩年を過ごされた円徳院を参観できて very happy!!   

円徳院を後にして八坂神社へ向かいます。                     

             
円徳院から八坂神社までぶらぶら30分程あるいたかな’と思います。

八坂神社
    

    

          

  

  

     

 



   

          

            

  

         

                
      16:22

        



      

                 
南座 ・滝沢歌舞伎

  
由緒ある櫓(やぐら)をもつ桃山風破風造りの劇場(私の宿泊ホテルは近いので)南座で歌舞伎を見たかったのですが生憎 その公演はなく残念!
         四条大橋

フッターイメージ